浄土宗 光明山 大 蓮 寺
大蓮寺 関連史料
◎ 像 造 銘
木造大日如来坐像
[胎内墨書銘](寺伝より)
当村各■伝右ェ門 甚九郎 京大佛法橋■ 誉宗雲
源左ェ門 与兵衛 理衛門
作左ェ門 おせき 吉左ェ門
佐左ェ門
于時延宝七(己未)暦別当稲毛久本村光明山蓮乗院大蓮寺住僧厭誉西欣
願主武州江戸浅草信蓮社法誉露身大徳 清誉浄雲大徳
奉修造行基菩薩の御作大日遍照金剛如来 品蓮社九誉利的願故大和尚
同 下目黒村賀藤八良ェ門
四月廿七日
一誉一夢 浄誉心清 崎村拾兵衛 同傳拾良 竹本藤兵衛
春心忍悦 正誉妙覚 〃 杢左ェ門 〃平ェ門 〃 利兵衛
〃 権兵衛 〃金兵衛 河崎金兵衛
〃 市郎兵衛 牛し助 〃 門助
(以下、判読不能)
[宝冠垂飾刻銘]
延寶七年
(未)六月八日 三五郎作之
山口平八
川崎市教育委員会『川崎市彫刻・絵画緊急調査報告書―本文編―』(P76b-77b)
川崎市教育委員会、1986年
大鏧
女講中
亀屋 喜兵衛内
美濃屋 伊兵衛妻
丹波屋 小助妻
家根屋 市兵衛妻
同 金助妻
同 久四郎妻
同 七五郎妻
建部十良左ェ門母
家根屋 万右ェ門妻
同 松五郎妻
同 嘉七妻
江戸中橋桶町
一町目新道
武州稲毛領
久本村
光明山大蓮寺
什物
十三世 輪誉代
奉納 鏧
辛 天明元歳
丑 十月十日
◎ 文 献 史 料
『蓮門精舎旧詞』(『続浄土宗全書』18、P274b)
[原文ママ]
○大蓮寺光明山金胎院同末 同領分本村
中興 開山光蓮社朋譽聞能和尚所生等不知。當寺初者天台宗也。起立年號不知。寬永二年十一月十日聞能和尙改淨土宗。延寳六年七月廿九日寂。行年八十二歲卒。
[書き下し]
○大蓮寺光明山金胎院 泉澤寺末 稲毛領久本村
中興開山、光蓮社朋誉聞能和尚。生まれ所等知らず。当寺、初めは天台宗なり。起立年号知らず。寬永二年十一月十日、聞能和尚浄土宗に改む。延宝六年七月二十九日寂。行年八十二歲卒。
『浄土宗神奈川教区寺院誌』(神奈川教区教務所、1962年、P36-37)
川崎市久本三九九番地
光明山金台院(元小田中泉沢寺末) 大蓮寺 大橋霊定
初め天台宗であったのを、寛永二年(一六二五)十一月十日光蓮社明誉聞能(延宝六年七月廿九日寂)が長坂権七郎の助縁を得て浄土宗に改めたといわれ(蓮門精舎旧詞)、寺伝では正保四年(一六四七)の起立ともいっている。江戸末期には「東向ニテ六間ニ四間半」の本堂があり、その左に大日堂(三間四方)と観音堂(二間半四方)があった。この大日堂は天台宗を奉じていた頃の遺構であったようである。その後慶応年間には大暴風雨にあい堂宇飛散し観音堂のみ残存していたのを、明治十六年九品仏浄真寺の住侶弘誉豊忍が住職して現堂宇を建立したといわれ、豊忍が止住する以前は無住寺院で、廃寺令の発布に伴ない、時に廃寺届を出したこともあったというが書類不備のため許可にならず、辛うじて法脈を伝えて今日に及び、昭和二十八年四月書道塾「つぼみ教室」を創設して教化の一助としている。
檀徒五十戸
本尊 阿弥陀如来
寺宝 大日如来 座像(長五尺五寸)
行基が聖武天皇の勅を蒙り此地を巡化の砌り、偶々疫病流行したので、仏像を彫刻したところ病災消除したと伝えられ、時に彫成したのが此像であったと伝えている。又江戸大火の折り如来の名を唱え火災をまぬがれた信者もあったといい、現に時の信者より寄進された石水盤・鳴鏧が保存されている。
当寺現在の境内及び建物
境内地 二八六・〇〇
墓地 四二一・〇〇
建物 本堂兼庫裡 四〇・〇〇(明治十八年造立)
観音堂 五・四七(昭和三十一年造立)
地蔵堂 一・五〇
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